昭和54年06月30日 交通安全悪疫予防大祈願祭
悪疫予防交通安全祈願大祭が、年に一回このようにしてとり行われます。本当に不思議というか、神ながらというか。本当に有難いおかげを頂いております。ですから今日はその一年間、本当に無事息災。事故というても事故らしい事故ではない。事故がよしあったにしても、致命的なものではなくてもう実に神ながらな、神様のお計らいのなかご都合のなかに、おかげを頂いて沢山な方達がおかげを頂きました。
その事のお礼を申し上げる。そして今年もまた一年間、どうぞそういうおかげが頂かれるようにという、お祭りでございます。今合楽で頂いておる様々なおかげを、ある人がもしそれが本当だとするならば、世紀の奇跡だと申しました。確かに本当であろうかと思われるような、いうならばおかげが頂けておる。この大祓式に昔はこれを大祓式と言うておった。だから六月の三十日十二月の三十一日ですか。二回けれども大祓式というのが、お道のご信心にそぐわないと言うので、今取り止めの形になっております。
けれども大祓式の形をここでは、大祓式とは申しませんけれども、形を取って祓えつものを作ったり、車の祓い詞を作ったり致しまして、おかげを頂いております。それがおかげを受けておる。それこそ私はやっぱり、本当に奇跡だと思うですね。私が去年千数百台の車のお祓いをさせて頂いておりますが。もう本当に例えば事故があったというても、本当におかげと思わなければおられない様なおかげを頂いておる。ほんなら無事息災というて、病気も何もしなかったかと言う事ではないのですけれども。
矢張り御神米お神酒さんだけでおかげを受けておる、と言う様にですね。とにかくそれが矢張り、沢山な人数に上って参りますとね。矢張りそれはもう本当に、世紀の奇跡と言わなければおられない。そういうおかげを頂いておる。今年もまた一つおかげ頂かんかんならん、為には今日までおかげを受けて来た事を、心からお礼を申し上げる。合楽で頂いておるいうならば神ながらなおかげである。
昨日は高橋さん所の支店に、支店長をしております、徳久さんと言うのがこの頃、結婚いたしました。それでその花嫁さんとお母さんと三人で、今日が御参りが出来ないからというので、祓えつもの色々持って、昨日参って参りました。途中で気がついたのは、折角書いておった祓えつものを忘れてきておる。それで徳久さんが仕方がない、あちらへ着いてから用紙があるだろうから、あちらで書かせて頂こう。
けれどもそん詳しい事が分からんがと言いよったら、嫁後がもうそんなこと仰らずに、これからちょっとひっくり返って帰りましょうと。そしてから折角書いてあそこに、上り口に置いて来とるとですから、とりに帰りましょうと言う。そんならと言うてまたこうひっくり返ってから家に帰った。そして驚いた。ガスの火が着けっ放しであった。やかんはもう水がなくなってから、お湯がもう切れてしまうぐらいにしておった。
はぁまもう驚いてしもうて、本当にこれがもし忘れて、そのまま持ってきておったら、そのまま、合楽に行っておっただろう。神様が忘れさせて下さった。そしてまた取りに帰らせて下さった。そうして大難にもなろうというそこん所を、おかげを頂いてと言うて、お礼のお届けがございましたから。私が申しました。そういう神様の御守護のなかに、そういう神様の祈りのなかに、ほんなら明日の矢張り、車のお祓いであり祓えつもののお祓いを受けるのだから。
愈々車も又はその祓えつものの上にも、それと同じ神様の働きがこもっておる。有難いことだなと。おかげというものは繋がっておる。それだけのことではない。そういう御守護にいわゆる、御神愛にみちた働きというものが、切れず絶えず何時もあっておる。それを受けとめて行くことが信心だというて話したことでした。やぁ本当に神様の御都合。忘れさせて取りに帰らせて家で、こういう様な大難にもなろうかという様な所を、おかげを、神様が受けさせて下さった。
そういう不思議な働きのなかにあすのお祓い。このお願をしておる、祓えつものの上にも、車の上にもおかげが頂けることが、そこに感じられる。それがおかげ。しかもそれだけの事ではない。合楽にご縁を頂いて、私どもの信心というものが、おかげには切れ間が無い。だからこちらの信心が切れ間ない、信心をさせて頂いて、何時もそういう御守護のなかにあるんだな、ご神愛のなかにあるんだなというおかげを、受け続けさせて貰うと言う事なんだと。
今朝から朝目が覚めると、すぐ床の間へ向かって御祈念をします。今私の床の間にかみぐうあと読み切らんですけどもね。そのあれ何という人でしたかね。鉄斎と言う人が大変有名な絵書が有名ですね。鉄斎の書いた書が掛かってます。その沢山の字の中からふっと、神様がお気付けを下さるんです何時も。この頃は私あの神を現わすという字を頂いた。今日はこれを横に頂いたこう。そすとその横には左側の方の横には、どういう字があるかと言うと。手辺に苗という字が書いてある。
これは描写の描と、言う事になるでしょうね。手辺に苗という字描写。表すという字。私はその其れをいうなら真、描とこう頂く訳ですけれども。その真描と頂いた時にです。あぁ今日の大祓式の事だなと、すぐ直感したんです。その苗という字の手辺を、これを獣辺にしてごらんなさい。猫という字になるじゃないですか。猫というのは、ここでは不浄と言われます。
久留米の初代が、御本部の楼門をおかげを受けられた時に、あの時分のお金で、一万円かかった。どうでもそれをおかげ頂きたい。師匠桂先生の御霊様が頼まれた。どうでもおかげ頂かねばならんと言うて、日夜いわばその事を、神様にお願いをなさっておった。そしたらね出社である、大分のご信者が特別のおかげを頂いて、教会にお供えをした。教会長先生はそれをそのまま、大分教会から久留米の教会にお供えに持って見えた。今のお金にしたらどの位でしょうかね。たいした金額でしょう。
まぁ一億円と言う所でしょうかね。それで、久留米の教会のお名前で、御本部へ献納された。それが楼門だと言われております。そん時にその石橋先生がね。そのお供えを神様にお供えをなさった。所がそれを下げられてから八坂先生、これは持って帰って下さいち言わっしゃった。折角その氏子の真心私も一生懸命の思いででございますが、何か御無礼がございましょうかと言うてお尋ねをされたらね。
今これをお供えさせて頂いたら、そのお三宝の上にそれこそ、一万円当時の一万円ですね、のお供えをさせて頂いたら、その横からね真っ黒い猫が、こう爪を立てる所を頂いた。これは不浄が掛っておる。不浄が掛ったものを、お供えする訳にはいかんと言うて、返されたと言う事です。さぁそれから帰られて家に帰られた所が、それこそそこの奥様がねもうそれこそ、涙を流してお詫びをされた。石橋先生の御神徳には恐れ入りましたと。実はご信者がいうなら、当時の一億円です。
今の一億円とても一万円と言う大変な金額をされたから、せめてね半分ぐらいは大分の教会に頂いても良かろうとこう思うた。それを先生は全部持って行かれたというのです。いうなら奥さんが不浄をかけられた。でその事をその事が御無礼であったに違いないというて、改めてお詫びをしてお供えをされたというお話がございます。ですから以来いうならば、久留米関係では猫のお知らせは、不浄と言われております。
今日私が頂いたのも、手辺に苗と言う字ですけれども。私がそれを頂いて感じた事は、結局不浄とは成就せん事じゃと、四神様は仰っておられます。不浄と言う事は例えば普通一般では、黒不浄とか赤不浄とか言うけれども。そう言う事は不浄にはならん。それでも心に掛るなら、先に断りを得て願いある事を頼めと教えておられる。そう言う事は決して、不浄と言う事にはならないのだ。というて例えば手が汚れておろうが、どういう風に体が垢にまみれておろうがです。
神様はそれをとやこうは言われんけれども。こちらがですほんなら私どもが、お参りをさせて頂いて、手を洗うたり口をゆすいだりするのは、矢張りそれを清めるその心なんだ。清まったというその心が有難いのである。だから汚れたままで良いと言う事ではない。どこにお粗末があるやら、御無礼があるやら分からんから、矢張りお供え一つの上にでも、真心と慎みを添えてという風に言われる訳です。
私はその今朝からのそのお知らせを頂いて、今朝からの御祈念の後の御理解に、その事を聞いて貰ったんですけれども。それこそ手辺という事は叩いてでも、打って叩いてでも、そのお互いが持っておる成就しない心。幾ら願うても願うてもそういう心の状態では、おかげにならんぞと。そういう不浄の心があったり不浄のものが、心の中にあったんではおかげにならん。今日の大祓式というのはそういう、願っても成就しない様な元を、叩いてでも落とさせようとなさる。
祓うて下さろうとする働きが、今日の大祓いのお祭りであり、悪疫予防の祈願であり、交通安全祈願祭であります。私は昔色々と御霊様の姿を頂いて、お参りをしてくる。はぁ誰かが参って来よると、後ろの自転車台に誰かが乗っとる。御霊さんが着いて来よる。又は生き霊が着いて来よる。そういう時代があったんです。だからお取次をする前そういうものを、まず祓うてやらにゃいけんのです。
自分は気が付かんでおるのです。例えば今頃はそういう意味合いの話は、もう滅多に聞く事も出来ませんし、またそういう御霊感という様なものも、合楽ではもう変わりましたからね。そう言う事はお話もしませんけれども。例えばそうであるとするならばです。皆さんが乗ってこられた自動車にです。ほんなら何か死霊のようなものが着いておるとするならばです。それを叩いてでも落とさせるというか、祓うてやるという働きが、私はいうなら神ながらな道で言う所の大祓式。
お道の信心で言う所の、今日のお祭りと言う事になるのです。大事な事でしょだから。徳久さんの今のお話やら、神様がもう今日の例えば、祓えつもの車のお祓いを、明日お参りが出来んけレどもと言うて、親子三人でお参りをしてくる、その心に神様が明日のお参りは出来んでも、おかげは頂けるぞというものを暗に示してござる。それこそ帰って驚いたというそのガスの着けっ放し。本当に大事に至らんで済んでおかげ頂いた。本当に神ながらなことでひっくり返って良かった。
こういうおかげを頂いたと。そのおかげでポツンと切ってしまわずに。こういう働きを下さる神様なのだから。明日の大祓式にこの祓えつものをはろうて頂いたら、おかげが受けられるという確信が持てれる。感じれれる信心をです、皆さんがいよいよ頂いて行かなければならないと同時に、今合楽で起こっておる神様のゴヒレイと申しましょうか。おかげというのはそれこそ、もしそれが本当ならそれは世紀の奇蹟だと人が言うほどしのおかげを受けておる。
そこでです合楽教会では神ながらなものを見たり聞いたり、頂いたりするのですから。皆さんの家庭の上でも、又は皆さんの職場の上でも。その神ながらなおかげの頂けれる信心をこそ、大事だと言う事になります。先日から二三日前でした。研修をさせて頂く時に、この神ながらという言葉が出てきた。みんなが神ながらはぁ神ながらのおかげを頂いてと。例えば今日のお天気なんかでも、神ながらなおかげを頂いたんです。万事万端な上に合楽理念は、その神ながらな働きを、見聞きする事が出来る。
感じる事が出来る。だからそれを私どもが、日々家庭で頂けれる信心させて貰うて、どうぞ神様のこういう御守護のなかに、何時もあるんだなという危機感が、神恩報謝の心ともなる。有難いなぁ勿体ないなぁという心になる。その有難いな勿体ないなという、その心で過ごせれる事が、信心させて頂く者の値打ちなのだ。その心におかげがあるのだ。そこでです私どもが所謂私ども、一人一人が神ながらな信心をさして貰わなければならない。その時に研修生の一人が、私は発表しませんでした。
そして私は今日の御理解のなかに、神ながらと出た言葉の、神ながらの意味が分かりませんとこう言う。合楽で信心しよって神ながらの事が分からんてんなんてん。そげな程度の低い事を言うてからとこう私、ちょっと思うたんですけどもね。けれども果たしてほんならお互いがです。神ながらとはどう言う事なのかと、問われたらそれにいうなら、正確に答えられる人が何人なるだろうか。合楽の信心はいうならば、合楽理念はその神ながらな生き方を説いてあるのです。
黙って治める。成り行きと尊ばせて貰う。大切にする。もうこれは神ながらです。起きてくる全ての事柄のなかに、いろんな都合のいい事ばっかりではない事も起こってくいる。けれどもそれを受ける事が神ながらなんです。神様があなたに求め給もう、例えばそれが苦しい事であるならば、修行だと受ける事が神ながらなのだ。ここでは一つ言うとかにゃならんと言う事は、もうすでに神ながらではないのです。黙って受けるんです。そして自分を見極めるんです。
そして自分が改まって行く研いて行く、材料にして行くという様な生き方が神ながらなんです。今こそ沢山な人数がおりますから、そんな訳にも参りませんので。ここではもう、ほとんどが、お下がりをもって、沢山な人達のお賄いを頂いております。家内が椛目時代は、勝手の方は切り回しておりましたが。あの時分はそれこそあるがままでした。お醤油が無か時には塩だけで。砂糖が無かならばもう砂糖なんかは使わない。もう私ども夫婦は、布一寸買わないという生き方ですから。
そういう生き方。神ながらと言う事は、おかげを受けると言う事と又は、修行をさせて頂くと言う事のなかにも、神ながらなおかげを受けると言う事は、神ながらな修行をさせて頂く所から頂けれるんだと。それこそはぁ砂糖が切れとると思うとったら、丁度お供えを頂いた。もう本当にお漬物が切れたと思いよったらお漬物を頂いた。合楽ではもうあっちこっちの、自慢のお漬物が集まってくる。
今はそんな訳にはいかん。やっぱ食料品屋さんと特約しとって、まぁ醤油とか味噌醤油ね、何かもう沢山お供え頂きますけれども、それでは足りない。だから買う時にはもうそれこそ、お愛想をさせて頂いていうならば、そこにこうバランスをとっとかんとね、バランスというかね。それが溜まり溜まってお粗末ご無礼な事になっちゃならんから、ここで言うならお醤油一本でも、買わせて頂くと言う事は本当じゃないです。それこそ建て前は、もう買わない事にしてるんですけれども。
本音はやっぱりそこに、醤油がなからなきゃ困ると思うから。お詫びをさせて頂く所から、本音というならば建て前とがコントロール出来る。そして神様が許して下さるなというものを感じておかげを頂く。そらもう私どもの上に徹底して、いわゆる神ながらな生き方をさせて頂いて、布一寸買いませんという生き方から、何が生まれてくるかと言うとね。この頃から百万円の袴を頂きました。しかもそれがもう全国でも、何枚もあるまいと言われるような袴でした。
春秋にはくのですからしばらくはかして頂いて、今は終わせて頂きましたけれども。もう本当に衣類に至るまで家内なんかは、この頃もうそれこそ何というでしょうかね。ダイヤとかヒスイとかエメラルドとかと言った様な、本当に素晴らしい、宝石までお供え頂く様になった。とてもとても指輪でもはめようなんてん、こげな素晴らしい、帯留めをしようなんてん、それこそ彼女は夢にも思わなかった事でしょう。
けれどもね布一寸買いませんという様な、言うなら楽はせんぞという心になったら、神様がさせずにはおかんと言う、働きそのものが、神ながらなおかげなんです。明日はいっちょ芝居見にでも行こうかと。明日は相撲見にでも行こうかと、というのではなくて相撲を見せずにはおかん、お芝居見せずにはおかんと言う働きが、そこに起こってきての言うなら、観劇であり相撲見物であって。
有難いなぁ勿体ない事だなぁと言う事になるのです。でなかったら私が金で私がお芝居見げいったっじゃけん、一つもただ面白かったというだけに過ぎない。しかもそれは自然のいうならば、おかげと言う事にはならない。神様のおかげとは思われない。はぁおかげで面白い思いしましたと言うておってもです。見せずにはおかん、させずにはおかんと言う働きを受けてであって、始めて実感として有難いという事になってくる。もう神ながらと言う事は、大変意味が深い。
三代金光様の奥様のお話がございます。お孫さんが女中さんと二人で遊んでおられたら、何か石に躓いてお孫さんがおこけになった。それで女中さんがこう起こしながらね。もうこの石が悪いですよ、めぇしましょうねと言って、その石をこう叩く真似をしておられる時に、丁度奥さまが、れをご覧になってですね。その女中さんの名を言うて。子供にそう言う事を教えちゃいけません。その子供がいわゆる躓いたんだから、この石さんが痛かっただろうごめんねごめんねと、その言われたという話がございます。
そういう生き方を神ながらというのです。自分が頭下げるとを忘れとってから、鴨居でこぶ作る様ないうならば痛い思いをして、あいたち言うちからここどん叩くような人がある。こげん所にこげなんば置くいとくけんじゃんち言うちから、パーんと蹴やるごたる人がある。(笑)これはね、神ながらな生き方じゃないんです。頭を打たねばならない。蹴躓かなければならない。そこに神様の本当のお心があるのです。すみませんもうそれこそ額口どん打ったならばそれこそすみません。
今日末永先生がそこの病院に入院しまして、もう十日になるんでしょう。その支払いがと言うて、公子さんが言うておりました。ほんなら今日払われるなら今日が良かばいと、私が言いました。今日は丁度大祓いの日じゃから昔でいうなら。お取り払いを頂くとじゃから。それで家内がご飯食べる時に、その幾らどんかかるじゃろうかち。幾らどんかかるじゃろうかち、多か方が今日は良かぞち私が申しました。ね。十万お取り払いを頂くよりも、二十万お取り払いを頂いた方が有難いでしょうもん。
巡りのお取り払いじゃ。はぁそげんかかるのち、もうそげなこつ言うたらそれは本当の頂き方、神ながらな受け方と言うのは、いうなら痛い思いをした時にそれこそ、やれいたや今みかげをと言う心にならせて頂いたから、巡りのお取り払いになるんです。ああ痛よと言うとったらお終いです。それがね段々稽古をさせて頂いておる。それが自然に出るようになるんです不思議です。本当の生き方が身に着いてくるんです。
今日も末永先生が事を、私今朝お願させて貰いよりましたら。あの深ねぎを頂いたんです。すき焼きなんかに使います白いねぎのね。あれにこうやって一生懸命、泥をかける所を頂いた。ねぎと言う事はこれは、神主の事をねぎと言うのです。神を奉仕するものの事をねぎと言うのです。信心させて頂く者は、本当な事が分かって、本当な生き方をさせて貰う。しかも痛い思いをする時には。
愈々もって自分と言うものが分からせて貰うて、それこそ土の信心を愈々させて貰うて、それに泥をかけて行くから五寸の白い所が、七寸の白い所になってくる訳。深ねぎですから。白い所が多くなって行く。そういう修行をさせて頂いておるのですから、私は今朝からも修行させて頂いております事を、お礼申させて頂いた。お取次の先生として取次者として、愈々信心を痛い思いをしながら深めていけれるんだと言う事が有難い。そういう受け方が神ながらな受け方なんです。
合楽ではもう愈々、天の心地の心。とりわけ人間は土より出でて、土に帰って行くのだから、その道中とても土の信心をさせて貰う。これに徹しようと。皆さん土の心に徹したら、どう言う事になると思うですか。第一腹が立たなくなります。いらいらがなくなります。不平不足がなくなります。だから土の信心を極めて行きよるのですから、腹が立ったり、いらいらしたりする時には、はぁまぁだ本当に、土の信心を身に付けていないなと思うて、愈々土の信心に努めて行く修行をさせて貰わにゃいけません。
もうこれはね今土の信心を、どの程度に頂いておるかと言う事のバロメーターです。自分の心の中はそれこそ信心の定規のようなもんです。皆さん私どもの生き方からね。いらいらが無くなったり腹の立つ事が無くなったり。いうならば問題が問題でなくなるです土の信心させて頂いたら。そこに、極楽を感ずるじゃないですか。はぁいらいらするもやもやする、もう疑わしゅうしてこたえん。
という様なもうこれはもう絶対合楽ではですね。この土の信心を極めて参りますと、そういう世界からいうならそういう、極楽の世界が開けてくる。そしてその極楽の世界から、もう一つ向こうの合楽世界が生まれてくる。秋永先生の奥さんが頂いたという。合楽建設の神の願いをキャッチすると言う事を頂いた。私どもが合楽世界に住まわせて頂く。それが神様の願いなのだ。私どもの心のなかには、不平もなからなければ不足もない。ただあるものは有難いものばかり。
その有難い心で奉仕する。神様が喜んで下さらない筈はない。神様が一礼を申すという様な働きにもなって、神様と氏子とがあいよかけよで、拝み合うて行けれる世界を、合楽の世界の顕現がです。それが神の願いである。だから神の願いをキャッチせよと頂いた。ほんなら、どういう風にしてキャッチするか。腹の立つ事があり、いらいらする事がある。その問題を取らえて、そこに深い御神意のある事を悟らせて頂いて、なるほど腹を立てる段じゃないたい。お礼を申し上げなければならんたいと言う事が分かる。
本当な事が分かるという事が、神ながらなんです。そういう神ながらな信心を、愈々身につけさせて頂いて銘々の心の上にも、家庭の上にも神ながらな働きが起こってくる。それを、ここでは天地のリズムを聞きながらの生活、信心生活と言われております。四、五日前でした。ここへ出て参りましたら誰か夜中に参って来た人が、そこにお供えをしておる訳です。妙なもんが暗いから分からん。何じゃろうかと思うたら木彫の布袋さんであった。しかも布袋さんが袋を担いだり、左団扇ですわねあれはみんな。
所がこの頃の布袋さんな、右持ちになってござるですねみんな。あらしらごっです。布袋さんちいうのは必ず、左に持っとかなきゃほんなこっじゃない団扇を。楽な事を左団扇ち言うでしょう。その左団扇が使えるような、いうならばおかげ。ある時に軸のお供えを頂いた時に頂いた御理解のなかに、布袋さんの絵が書いてあるです。その上にその賛が書いてある。どう言う事が書いてあるかと言うと。天上界に於いては弥勒菩薩。人間界に於いては布袋和尚とあります。
私の事を皆さんが、黒様という風に言われる。けども大黒様の時もあれはほんなら、私があちらへ下がっておる時に、布袋さんちお腹をこう出しとるとでしょうが。そういう時もある。その時に人間界に於いては布袋和尚が、最高のお徳と言う事なんです。そういうお徳を目指させて頂いておる、いうなら私であり皆さんなのだ。日々生神を目指しての信心の稽古でしょうが、皆さんの場合でもそうです。金光教は皆そうです。天上界に於いては、弥勒菩薩人間界に於いては、布袋和尚を目指させて頂いておる。
その布袋和尚が左団扇でもなからなければ、袋を担いでおると言う事でもない。それこそ、こういう風にしてその万歳をしておる所を頂く。そしてその日の御理解を頂いた時にです。合楽理念の凱歌と言う事を頂きました。合楽理念が完ぺきのいうならば、十全の教えだと。皆さんこの合楽の信心、金光教の信心はね、そのもう十全の教えなんです。人間がもう絶対助からにゃんごと出来とるとです。しかもそう難しい事無い。その気になれば、だれでも助かられるんです。
例えば仏教に五戒がある。キリスト教には十戒がある。金光教にも十二カ条の御神誡があるけれども。教祖の教えられる所の、十二カ条の御神誡というのは、皆さん読んで聞いて、何時もおられるように。誰でもその気になれば守られる、行じられるいうならば、戒めなんです。ところが五戒十戒というものは、本気でその宗教を極めようとしたら、もう生身の人間では到底できないと言う様な、難しい壁にぶっつかるごと出来てるんです。そして因縁だ現在だと言う事で。
愈々救いがそこから切れてしまう様な感じの宗教が、過去数千年にわたって人間世界に現れておる所の宗教である。金光教の信心はその宗教以前の宗教だ。合楽で言われております。その宗教以前の宗教。どこが宗教以前の宗教なのか。どこが十全の教えなのか。因縁も良かろう、罪もあっていいけれども。教祖が言われる所の和賀心。和らぎ喜ぶ心を目指させて頂く事によって、そういう罪も現在もいうならば、因縁も輪廻も。
それこそ霜に煮え湯をかけるように、消えて行くほどしの有難い御教えであると言う事なんです。それをね合楽理念を本気で、分からせて貰うて全うして行くと。それが成程そうだなそうだなという事が分かって来るんです。だからそういう教えをただ聞いておるだけではねいけんのです。しかしそういう信心がです。ここに合楽に打ち建てられたという事がです。合楽理念の凱歌なのだ。
それをほんなら今日合楽で、皆さんが神ながらなおかげを頂いて、もしそれがほんなごつならば、世紀の奇跡だと言われるほどしのおかげを、自分の銘々の家でも自分の身の上にも、頂き表して行くと言う事から、始めて合楽示現活動に参画する事が出来ると言うのでございます。私はその朝お夢を頂いた。はぁこういう山を蓬莱山と言うのであろうかと言う様な、もう切り立ったような山の、八分目ぐらいの様な所に、私が登っておる。所が向こうの方におった誰かが、その立派な道が付いてるんですよね。
それに誰かがその転落した。はぁその転落ち言うが、うぐるぐるぐるぐる回って落ちてくるのに、いっ時時間がかかった。そして私もそこへ行ってみた所がこんもりとした、杉林の中に落ちておった。別に体がどうと言う事で無いけれども死んでる。そして丁度小学校の時の読本を読むように、こんなふうにしてから本を持っておる。その本がどげな本かと思うたら、漫画の書いてある本であった。合楽ではねそれこそ今私の枕元に掛けてあるそれじゃないけれども。
それこそ字引きを引かなければ分からないほどしの、こんなに見やすう説いておるけれども。そんならば合楽でいう十全の教えとか。どこがいうならば、宗教以前の宗教なのかと言う事を知ろうとするならば、それこそ字引きを引かなければ、引いた上にもまたお話を頂かなければ分からんのです。それこそ漢文は読みは切らんけれども、それを教えて貰い字引きを引きながらという様な。そこにですいうならば、学者が年をとってもメガネをかけて、本を読むようなものであろうぞいと言われるように。
信心の徳が身に付いて行く。蓬莱山ももう八分目も登られ、それこそ素晴らしい視界である。ただし足元を見ると目が舞うごとある。若い人達が言うならばそれこそ、何かピッケルとか言うたな。何か岩に打ち込んで山を登って行くという様な、そのスリルを感じるような登りじゃない。そこには道がきれいな道が付いておる。ただ登ってさえ行けば、頂上を極めて行く事が出来る。後もう二分の所である。と言う事をですその時に私が頂いたのは今まで、いうならば土の信心だ大地の信心だと言われて。
もう一通りの事はあらゆる角度から説きつくされた感じ。そこでこれからは天の心を目指してと頂いた。いよいよ天の心に専念。なるほど天の心とは麗しい心である。無条件に与えて与えて止まない心である。大地の心が黙って受けて受けて、受け抜く心なら天の心とは黙って、それこそ無条件に与えて与えて止まない麗しい心なのだと。そういういうならば私どもは、無条件に与えて与えて止まない信心を、これからはまたあらゆる角度から頂く事でしょうが。
昨日の朝は天理、天の理と言う事を頂いた。すぐ私は直感した。はぁ天理教の教祖の事を思うた。天理教では天の理をいわば、説き尽されてああいう素晴らしい、大きな教団になられたんです。それがどこからかと言うと。いうならばあのおかげを頂かれた元と言うのは、天理教は私は日の寄進にあると思うです。無条件の奉仕なんです。無条件に捧げるという事なんです。そこに、潔さと言うのが要るんです。だから信心の分からない人達はね、悪口を言うです。
(安きを払うてたぁうり給え、天理オの尊?)ちいう様な事を言う訳。またそう言う事実が無いじゃない訳ですよね。けれども教えのその根本と言うものはです。いうならばそういう、無条件に捧げる。教祖様その方自身が、自分のいうならば全財産を難儀な人に分け与えられたと言うお方ですから。所がお道の信心でいう所の、天の理と言うのは、どういう事になるかと言うと。私どもはその基礎として、土の信心を頂いておる。またこれからも頂いて行く。その土の信心と天の心である心を、私どもの心としての生き方と言うものを進めて行く限り。それこそ天と地が一つになって拝み合える世界。鶴亀が舞い遊ぶような、祝い目出たいと言うおかげになってくると言うのが、お道の信心の、いうならば潔く奉仕する。潔く捧げる心なのです。
愈々合楽の御造営建設も、着々として進んでおります。私はこういうチャンスを逃してはならない。先日もある方が先生もう御造営がはじまって、皆んなその御造営費のお供えをなさっておられるけども、私はお供えが出来ません。それで先生ちょっと金儲けをさせて下さいとこういう訳。昨日ね電話が掛って来た。その金ばこ買うとる。今安か。もう絶対高うなる。そしてもう来月は幾らになる、さ来月は幾らになるちいうごたる風に、その言われたち言う訳です。
だからもう本当に儲うかったら、いっちょお供えもさせて貰いますから、どげなもんでしょうか。買うても良いじゃろうかと、こう言う訳なんです。うんそら買うても良かろう。そんならば十匁買いましょうか、百匁買いましょうかと言った様なお届けであった。そらほんなら金のあるしこそげなあんた、金儲けなら沢山買うた方が良かろうもんち、私が言うた。はいそればってんから○○さん、お供えする為んどん買いなさんなち、私が言いました。ね。ただそれは金を儲けると言う事は。
悪い事じゃないのだから。金を儲けさせて頂く事を願っての、いうならばお伺いなんだよと。私はあんたが儲うかってから、それからお供えする事を思うてからお取次はせん。そんな事から切り離しなさい。そして要るならば買えるだけ買いなさいというて、まぁ申しました事でしたけれども。おかげ頂かせて下さい、おかげ頂かせて下さいおかげ頂いたなら、お供えしまっしょといったなら、誰でんするじゃないか。私が椛目時代そんな人があったんです。ある教会に参っておる。
その時分な百万円の宝くじじゃった。百万円の宝くじをいっちょ、大坪さん私に大坪さん大坪さんち言う人でした。いっちょお願いばして下さいち。家んあぁた親先生にお願いしたち。御造営が色々こうそこでも始まろうと言う様な話があっとった。そるけん先生どうでんこうでん、いっちょ百万円の宝くじが当たるごとお願いして下さいち。半分なお供えするけんでち。そしたら先生が仰った。
あんたがそげなことじゃお願いはされんち言わっしゃった。あんたが当たったっちゃ全部お供えする気になるなら、私がお取次させて頂こうち言うた。のうや大坪さんあぁた、そげんみんなお供えせにゃんごたるなら、なぁにんならんじゃんのち言わっしゃった。(一同大笑い)皆さん笑いよるばってん、同じようなものを持ってるんですよ実際は。ね、儲けさせてください。商売繁盛させて下さい。そしてほんなら、何千万なら何千万儲かったばってん、何千万お供えしきる人はおらんです。
その中からほんなら百万円もお供えすりゃもう甲の上じゃん。(笑)だからそう言う事では、天の心にはならんと言うのです。皆さんもご承知でしょうが。田主丸のむつ屋というのが、椛目ではもう一年一年、年々歳々そのお広前がひろなって行くようですね。ある大きなその時では、椛目で一番大きなまぁお金の要るという時でした。総代をしておられました田代さん。石井さんと話し合って京都か何かその展示会がある。それでもう親先生今度の展示会は、今度のご造営に掛けます。
だからと言うお取次を願われた。もうそれこそその時の展示会は、それこそ自分でも条件に及ばんごとおかげで売れた。もちろんその利益の全部はお供えでした。子供達がまだ、信司郎さん達が小さい時分でしたけれども、その御造営御造営で皆んなが、積立しよった子供達が。それまでも一緒に添えて、お供えをされた事があって、そん時の増築はそのお供えだけで、ほとんど出来たというくらいにおかげを頂かれた。こういう心が私は天の心だと思う。無条件なんだ無条件に捧げる心なんだ。
今合楽で残されておる地の信心が、八分目までは、こうやっておかげを頂いておる。あと二分の信心は、もう天の心を愈々体得して行く。それも実験実証させて頂こうというのである。その実験実証がです。いうなら合楽に何か、お広前に何かという様な時でなからなければ出来んでしょうが。だから儲かったならじゃなくて、それこそ身を削り心を削りしてからのおかげでなからなければならない。
大地の信心が心を削るなら、天の心の信心とは身を削る事だとも頂きました。もう考えてみりゃまさにその通りです。土の信心というのは愈々もって、心を清めて行く心を削って行く、改まって行くという生き方。天の信心とはそれこそ身を削っての信心である。タバコ飲みよるもんないっぺん止めて見るがええ。酒飲みよるもんな半分にしてみるが良い。そんならお惣菜料を半分に一つ、削ってからでもこれが身を削ると言う事。その身を削っての、いうならば信心こそが天の信心だ。
神ながらとはだから本当な事を本当に行ずるという生き方。そして合楽で現れておる所、神ながらのおかげを、皆さんの上にも、そういう家庭であり、私である所のおかげを、いうならば天地が揃うた足ろうた信心を目指させて頂いて。合楽建設の神の願いの信心をです。様々な場合にキャッチする。今合楽でそれこそ槌音高く、毎日合楽建設が進められておる。じっとしちゃおられんという、いうならば心の状態でです。愈々身を削ってのいうならば、無条件の奉仕が出来る。
信心のいうなら天の心を心とする稽古をさせて頂く、絶好の今機会に合楽の皆さんは、恵まれておると言う事になります。儲けたならお供えをする。それも良かろう。神様は、受けて下さるに違いはないけれども。儲けなければお供えが出来んと言った様な事では、神ながらな信心とは言えないと言う事になります。この神ながらと言う事はね。自分の上に、神ながらの信心をさせて頂くと、もう限りなく広がって行くもんです。
私どもはね、ご神道で言う所の神ながらと、お道の信心でいう、合楽で言う所の神ながらというのは、大変な違いがあります。そこに神ながらのおかげを頂いて、それこそ世紀の奇跡と言われるようなおかげを、打ち建てさせて頂いての、普通おかげを頂いて頂きたいと思う。今日の大祓式に、それこそ遠方の方達は、みんな郵送して参りました。それで矢張り、おかげを頂いておるんです。もう今日年も一年無事でおかげを頂いたという、そのお礼と共に今年も、うぞよろしゅう。
それでも矢張りおかげは受けられるんです。けれども、銘々が神ながらのおかげを頂く事のためには、愈々神ながらな今日私が申しました内容の信心が、皆さんの信心生活の上に。それが血に肉になって行く修行をさせて頂かなければ、いわゆる銘々の上に神ながらなおかげになって、現れてこないと思うです。徳久さんのお話を聞いて頂きました。本当に心を神様に向けて、お参りをしてくる事によってです。神様はそれこそ大事になろうとする。
いうならば一歩手前で、神様はおかげを下さる。そういうおかげ同時に大祓い式によってです。私どもがかなわないいうなら、不浄である。または私どもの心に付いておる所の、お粗末ご無礼その不浄の心を、神様が叩いてでも、落として下さろうとする働きが、今日のお祭りであると分かるならばです。愈々また改まらせて頂く事にも、神ながらな信心をさせて頂く事にも、一つ心しての信心を進めて行きたいと思います。
どうぞよろしゅうお願いします。